平安時代に栄えた平安仏教を語る上で、欠かせない二人の人物。
空海(くうかい)と最澄(さいちょう)。
同じように仏道に進み、唐にわたり開祖として活躍。
空海と最澄を調べると、よく比較されていることがわかります。
空海は何をした人なのか、最澄はどのような人物なのか・・・
そしてなぜこの二人は比較されるのでしょうか。
それでは空海は最澄の違いをお送りします。
真言宗の弘法大師|空海
まずは空海とはどんな人物なのかをまとめます。
空海は平安時代初期のころの僧侶です。
生誕は774年6月15日 。
18歳の時に官僚を目指し、貴族の子弟しか入れない大学へ行きます。
大学在学中に出会ったある仏道修行をしている人と出会い、仏教に目覚めました。
そして、19歳で厳しい山林修行へと旅立ちます。
804年5月、29歳の時、第16次遣唐使船に乗り込み、唐(中国)へ。
数々の学問や技術を学び、膨大な仏像や法典などを日本へ持ち帰ってきました。
唐で学んだ大乗仏教の教法の一つ、密教(みっきょう)の教えをもとに「真言宗」を開きます。
835年に62歳のときに入定(にゅうじょう)、永遠の瞑想に入りました。
そのため空海は現在でも、修行を続けているとされています。
空海は、実績が認められ醍醐天皇にから「弘法大師」の諡(おくりな)を与えられました。
日本の書道史上の能書家として知られ、三筆のひとりに数えられています。
ちなみにことわざにある「弘法にも筆の誤り」の弘法は空海のことです。
天台宗の伝教大師|最澄
次に最澄についてまとめます。
最澄も空海と同じ時代を生きた僧侶です。
生誕は767年8月18日。
12歳のときに出家、19歳のとき最澄と改名。
30歳のときに、桓武天皇から宮中の内道場に奉仕する官職に選ばれるなど、エリート街道を突き進みました。
38歳のときに遣唐使として唐に渡ります。
唐に渡った最澄は、1年間という短い期間でありながら禅や密教を学びました。
そして唐から戻った最澄は、「天台宗」の開祖となります。
最澄の死後、清和天皇より「弘法大師」の諡を与えられました。
なぜ空海と最澄は比較されるのか
同じように同じ時期に唐に渡り仏教を学び、宗派の開祖である空海と最澄。
なぜよく比較されるのでしょうか?
その理由として次のことが考えられます。
ポイント
- 空海は無名で最澄はエリート
- 密教を完全に学んだ空海とできなかった最澄
詳しく見ていきましょう。
1.空海は無名で最澄はエリート
最澄は弱冠19歳で、年間10名しか認められていない朝廷の僧侶に。
そして38歳で遣唐使として唐に渡った時には、桓武天皇の命による公的僧侶として特別待遇で扱われました。
最澄は注目されていたエリート僧だったわけです。
一方で空海。
31歳で唐に渡った時は無名の僧、大勢いる留学僧の一人として扱われていました。
エリートの最澄と無名の空海は比較されやすいのです。
2.密教を完全に学んだ空海とできなかった最澄
密教とは秘密の教義と儀礼を、師資伝承によって伝えていく仏教のこと。
唐に渡ったとき空海は、密教の僧侶として名高い「恵果(えか)」に学び、恵果の後継者として指名されほど密教を完全に学んで帰国します。
一方、最澄は当時世界的に主流だった天台宗を勉強しました。
滞在期間が決まっていたため、密教は詳しく学ぶことなく1年ほどで帰国することに。
しかし、その後に密教が求められることとなります。
密教をうまく学べなかった最澄は、年下の空海に頭をさげて教えを乞うこととなります。
密教を完全に学べたかどうかで違いがでてきました。
まとめ
空海と最澄の違いをまとめました。
エリートと無名、密教を完全に学んだかどうか・・・
同じように仏道に進み、唐に渡った二人ですが、これだけの差が出てきました。
もし最澄が空海に頭を下げなければ、平安仏教は発展しなかったのかもしれませんね。
二人の偉大な僧侶を調べると、もっと日本仏教が面白くなるはずですよ。