「夜叉」と「般若」。
二つの言葉を聞いて、みなさんはなにをイメージするでしょうか?
おおくの方が、両方とも「鬼のことだ」と考えるでしょうね。
でも細かく見てみると、じつはまったく違うのです。
一番大きな違いは…。
ということで今回は、
夜叉と般若の違い | 遠くて近い?ふしぎな関係
をお送りします。
夜叉と般若は鬼を指すけれども、実は…
結論から言うと、
- 「夜叉」は仏教を守る鬼のこと
- 「般若」は能の演者がかぶるお面(般若の面)のこと。そのおどろおどろしいイメージから、鬼の代名詞になった。
ということで、まったく違います。
くわしく見ていきましょう。
「夜叉」とはなにか
もともとはインドで人を食べる鬼神のことを指していました。
しかし仏教に従って悪いおこないをやめ、逆にその教えを守る善神として扱われるようになります。
サンスクリット語で“yaksa”(ヤクシャ)と呼ばれていた彼らは、中国で「夜叉」と音写されて漢訳経典にでてきます。
「薬叉」「夜乞叉」と書くこともあります。
さらに日本では、夜叉がおそろしい姿で人を害することから「威徳」(いとく)、あるいは素早く動くので「捷疾」(しょうしつ)などの言葉で翻訳されました。
女性の場合は「夜叉女」(やしゃにょ)と呼び、男女の性別に分けられます。
「夜叉」の種類
夜叉は仏法を守護する八部衆として名をつらねます。
- 天(てん)
- 龍(りゅう)
- 夜叉(やしゃ)
- 乾闥婆(けんだつば)
- 阿修羅(あしゅら)
- 迦楼羅(かるら)
- 緊那羅(きんなら)
- 摩睺羅伽(まごらが)
以上の八種類の神々や鬼神、精霊たちです。
それぞれに数万・数千もの数がおり、お釈迦さまの教えを守る善神の部族のひとつとして、夜叉たちは活躍します。
さらに夜叉のなかにはたくさんの種類があります。
総大将は毘沙門天。七福神のひとりとしても有名ですね。
- 八大夜叉…毘沙門天に仕える夜叉は何万何千と多く、そのうち特に強力な八人のことを指します。おなじく毘沙門天二十八使者といわれる夜叉たちもいます。
- 十二神将…薬師如来を守る家来の夜叉たちのこと。
- 十六善神…般若経を守る十六人の夜叉。上の十二神将に、増長天・広目天・持国天・多聞天(=毘沙門天)の四天王が加わっています。
ここでは「般若」にも関係がある十六善神について見てみましょう。
十六善神とは
「西遊記」はむかしの中国で作られたSFです。
近年の日本でもテレビドラマ化されたことがあるので、覚えていらっしゃる方も多いでしょう。
劇中で出てくる三蔵法師こと玄奘(げんじょう)三蔵は、実在のお坊さん(602年生まれ~664年没)。
唐の時代、はるかシルクロードを超えて中国からインドに入り、たくさんの仏像と経典をたずさえて戻った高僧です。
玄奘が持ち帰ったたくさんの経典のなかで、いちばん有名なものが「般若心経」のもとである“大般若経”全600巻。
そして、お経そのものと、書かれている内容を信じる人間をつねに守っているのが十六善神なのです。
天台宗・真言宗・曹洞宗の大きなお寺では、たくさんのお坊さんたちが600巻の般若経をみんなで読む「大般若転読会(だいはんにゃてんどくえ)」という法要がおこなわれます。
読む…といっても、600巻すべてはあまりにも時間がかかるので、経典の本をパラパラと繰り広げて読んだことにするといったほうが正しいでしょう。
そこでは釈迦如来を中心にして、十六善神と玄奘三蔵、そして彼の道中を守った夜叉・深沙大将(じんしゃだいしょう)が描かれた掛け軸が祀られます。
この十六善神の夜叉たちが、悪いものをよってたかって袋叩きにしてくれる!という大般若経をもちいた特殊な祈祷法があり、さらに以下に続く「般若」と不思議につながっています。
「般若」について
「般若」といえば、みなさんがすぐ思いうかぶのは、このお面でしょう。
日本の伝統芸能である能において、演者が用いるお面のひとつ…それが「般若」です。
まさに鬼のような形相…。
女性の嫉妬と怒りをあらわしていると言われています。
つまり、「般若」は女性の役だけが使うのですね。
「般若」はたくさん種類がある
お面「般若」には、このようなたくさんの種類があります。
- 蛇(じゃ)
- 真蛇(しんじゃ)
- 泥蛇(でいじゃ)
- 般若(はんにゃ)
- 生成(なまなり)
- 鉄輪女(かなわおんな)
- 白般若
- 般蛇(はんじゃ)
…字面を見るだけでも背筋が凍りつきますね。
面白いことに、蛇の名前がよく付けられています。
これは怒りやうらみに狂った女性の執念ぶかさが、蛇のようにおどろおどろしいということなのでしょうか?
能に「般若」が出てくる主な演目
「般若」のお面がもちいられる能は、おもに以下の三つです。
葵上(あおいのうえ)
紫式部「源氏物語」が由来。怨念のあまり生霊と化した六条御息所が、光源氏の正妻である葵の上を苦しめます。
しかし修験者による般若経の祈祷で打ち払われ、成仏するという筋書き。
ここで六条御息所の演者がつかう「般若」のお面の特長は、貴族なので顔がおしろいで真っ白なことです。
道成寺(どうじょうじ)
和歌山県日高川町の道成寺につたわる「安珍・清姫」の伝説が由来。
地方豪族の娘・清姫が、美男子の僧侶・安珍に裏切られたことに激怒して蛇となるという内容です。
上に挙げたお面「蛇(じゃ)」は、道成寺だけに使われます。
肌色で耳がありません。
黒塚(くろづか)
福島県二本松市につたわる「安達ケ原の鬼婆」伝説が由来。
旅の山伏を泊めて食べようとした老婆が、正体が暴露されるや怒りの形相で山伏たちを追いかけるという筋書きで、ここで鬼婆役の「般若」のお面は濃い肉色のものをつかいます。
なまなましい鬼そのものを表現しているのでしょうね。
お面が「般若」と呼ばれるようになった理由
三つの説があります。
- 面打ち般若坊という僧侶が作ったお面だから
- 葵上において、うらみのあまり生霊になった六条御息所が、般若経の祈祷をうけて成仏したことから
- 仏の智慧でできたお面だから
そもそも「般若」とは仏教において、すべての事象や道理をあきらかに見抜く智慧のことを指します。
サンスクリット語のprajna(プラジュニャー)が中国で音写されてできた言葉です。
しかし現代では仏教への信仰はうすく知識も浸透されにくい傾向にあるので、「般若」といえば鬼のお面、というイメージのほうが強くなりました。
さすがにあのお面のインパクトには勝てませんね。
子供が見たら泣き出すくらいですから…。
大般若の祈祷法
葵上のなかで生霊の六条御息所がうけた、般若経の祈祷について。
たいへん古くからある方法でして、大般若経の第578巻目、「理趣分」と呼ばれる一巻を使います。
一説によれば慈覚大師・円仁(794年生まれ~864年没)が中国から伝来させたという秘法で、ひとたび発すれば十六善神がたちまちに行者を守護し、悪鬼悪魔を撃退するといわれています。
夜叉たち十六善神にたたきのめされて改心した生霊。
その役がつけるお面が「般若」と呼ばれる説があるのも、またふしぎな縁を感じます。
まとめ
「夜叉」は仏教を守る鬼であり善神、「般若」は鬼のお面のことであり、両者にはかなり隔たりがあることがわかりました。
しかし仏教的に見れば「般若経」と関係があるという接点があります。
また「夜叉」は男女の性別があり、「般若」のお面は女性役だけが使える、というところも興味がそそられる点ですね。
「般若」本来の意味は薄れていますが、このようなかたちで仏教が語り継がれるのも、時代が変わりゆく証拠。
情熱はげしく印象的な「般若」のお面から、ふしぎなご縁をたどり、静かなほとけの世界にたどり着く人もいるのかもしれません。