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浄土真宗『東と西の宗派の違い』両者が分派した歴史的背景は?

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浄土真宗 宗派 違い

 

浄土宗と浄土真宗について以前、記事を書きました。
その時思ったことは・・・

『どちらも庶民向けの思想だな』というのが率直な感想です。

 

どちらも厳しい修行を必要とせず、『念仏を唱える(阿弥陀仏の力を信じる)ことで、極楽往生できる』という思想は、庶民にとっては手軽で嬉しい仏教です。

 

そんな大らかな思想の仏教は『きっと宗派間でも、ややこしい争いとかなかったんだろうなぁ』と思ったのですが・・・

調べてみると大人の事情で過去には分派騒ぎもあったようです。。。

そこで今回は、
浄土真宗『東と西の宗派の違い』両者が分派した歴史的背景は?
をお送りします。

 

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浄土真宗の宗派

浄土真宗には多くの宗派がありますが、各宗派の協力・連携を目的に『真宗教団連合』が1923年に結成されました。

この加盟宗派は10宗派で、『真宗十宗派』と呼ばれています。

  • 浄土真宗本願寺派
  • 真宗大谷派
  • 真宗高田派
  • 真宗佛光寺派
  • 真宗興正派
  • 真宗木辺派
  • 真宗出雲路派
  • 真宗誠照寺派
  • 真宗三門徒派
  • 真宗山元派

今回説明するのはこの中でも、『本願寺派と大谷派の違い』について注目したいと思います。

両者の違いを説明する前にまずは両者の関係について説明しましょう。

 

本願寺派と大谷派の総本山

現在、本願寺派の総本山は【本願寺】であり、大谷派の総本山は【東本願寺】です。

 

両者は1987年まで、両方とも『本願寺』が正式名称でした。

そのため、両者の区別をするために、お互いの立地関係で『西本願寺』、『東本願寺』という通称で呼ばれていて、東本願寺の現在の名称は当時の通称がそのまま現在でも使われています。

しかし正式名称は東本願寺ではなく『真宗本廟』です。

 

地元京都では今でも本願寺のことを『お西さん』、東本願寺のことを『お東さん』と呼んだりします。

 

ちなみに現在でも関西では芋や豆、いなり寿司のことを『お芋さん』『お豆さん』『おいなりさん』というように『お〇〇さん』と呼ぶ文化があります。

『お西さん、お東さん』という呼び方も、この文化の表れと考えられます。

 

話を戻して、この両者が両者とも『本願寺』と名乗っていたのは、元は同じ宗派だったからです。

本願寺が西と東に分かれることとなった経緯としては、政治的な理由があったと考えられています。

分派について説明するためにまずは本願寺の歴史について、ざっくりと説明します。

 

本願寺の歴史

浄土真宗の本願寺の名称が誕生したのは1321年です。

親鸞の墓所であった『大谷廟堂』が、寺格化し本願寺となりました。

 

ただこの本願寺は様々な理由により、これまでに何度も移転しています。

その度に親鸞の御真影を移設し、御真影の置かれた寺を『本願寺』と呼んでいるようです。

この御真影とは親鸞の座像で表面には親鸞の遺灰を混ぜた漆が塗布されているため、『骨肉の御真影』とも呼ばれています。

 

現在の本願寺ですが、今の場所に移設されたのは1591年。

豊臣秀吉から土地を与えられた顕如が本願寺を再興し、それが現在の本願寺(西本願寺)となっています。

本願寺が2つに分かれるのは、それからさらに10年程後のことです。

 

分派について説明する前に、浄土真宗の歴史についてもざっくりと説明します。(もったいぶり)

 

浄土真宗の歴史

今ではよく知られた宗派の1つである浄土真宗ですが、開宗当初から一気に広まった訳ではありません。

浄土真宗が全国に広く布教したのは、本願寺八世の蓮如の功績と考えられています。

 

蓮如は親鸞の教えを、わかりやす~い言葉でまとめた『御文(御文章)』を作成し、それをもって庶民への布教を行いました。

『理解しやすい教え』は庶民にも受け入れられ易く、急速に信者を増やしていくこととなりました。

この時、広まった浄土真宗は【一向宗】と呼ばれるようになりました。

 

急速に増えた一向宗の信者はやがて全国各地で団結し、蓮如のことなど御構い無しに、大名などの施政者に反乱を起こすようになります。

これが【一向一揆】と呼ばれる反乱です。

なんだか中学校の歴史を思い出しますね(笑)

 

この一向宗の勢いを恐れ、多くの大名が禁教令を出しましたが、その後も一向宗の勢いは止まらず、大名が日蓮宗と結託し、京都山科にあった本願寺を焼き討ちにするという事件もありました。

山科で焼き討ちにあった本願寺はその後、大阪に移され石山本願寺(現在の大阪城の場所)となったのです。

 

このように当時の浄土真宗(一向宗)は、諸大名も恐れる程、強大な力を有していました。

当時の権力者にとっても、一向宗が味方につけば心強い一方で、敵に回ると厄介な相手だったのです。

 

そんな一向宗ですが、流石に織田信長には敵いませんでした。

信長は各地の一向宗を根絶やしにして回り、石山本願寺以外の一向宗は、大半は全滅状態となってしまったのです。

 

石山本願寺で一向宗は必死の防戦を続けていましたが、天皇が仲介に入ることで織田信長と和解することとなります。

この時、石山本願寺を明け渡すことで、信長と一向宗の戦いは終わりを迎えました。

 

その後、豊臣秀吉から土地を与えられて、今の場所に本願寺が再興されました。

 

やっと本願寺と浄土真宗の歴史が追いついたので、東西分派の経緯について説明します。

 

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東西分裂の経緯

東西分裂のきっかけは、『石山本願寺の和解』でした。

当時の門主の顕如は信長との和解後、自身の長男である教如に『先帰るから、後処理してから帰ってね』と言って先に石山本願寺を離れました。

※以下、西を黄色、東を赤色にしてあります。

 

しかし教如は一部の仲間と結託して、そのまま石山を占拠し続けることを選んだのです。

当然、顕如は誓約違反を咎められ、占拠を続けた教如たちも結局、石山本願寺を明け渡して去ることになります。

教如たちが去ったあと本願寺は火事に遭い跡形も無くなってしまいますが、これは教如達の仕業ではないかとの噂が残っています。

 

このようなことがあったため、京都の本願寺に移った後も顕如側教如側の間には、しっかりとした亀裂が入ってしまいました。

 

その後、門主である顕如が死去すると、一旦は教如が新門主になりますが、顕如の妻(教如の母)の進言により、教如は隠居させられ、教如の弟の准如が新門主になります。

 

こうなると面白くないのが、教如達です。

彼らはその後、大阪にある大谷本願寺を本拠地として、京都の本願寺とは別行動を取り始めます。

 

この辺りで明確に、【本願寺派と大谷派の分派】が起こるのです。

 

その後、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。

この戦いで本願寺派は西軍について戦っていたため、関ヶ原合戦後、『門主の准如を降ろして、教如を新門主にしよう』という意見が幕府内で出ました。

 

しかし当時の将軍である徳川家康は考えました。

『浄土真宗のやつら、このまま力をつけ過ぎても後々、厄介になるなぁ。そういや、あいつら今、兄弟喧嘩の最中だから、それを利用して浄土真宗を真っ二つにしちゃえ』

浄土真宗の力を削ぐ目的で、徳川家康は、教如に本願寺のすぐ東の土地を与え、東本願寺が誕生しました。

 

こうして西本願寺と東本願寺の分裂がおこったのです。

 

話が長くなってしまいましたが、本願寺派と大谷派に分裂した経緯は、親子喧嘩と兄弟喧嘩で宗派に亀裂が入り、それを徳川家康が利用したためです。

冒頭では大人の事情とは書きましたが、こうまとめてしまうと、意外にも子供っぽいことが原因だったりします。

 

大谷派(東本願寺)と本願寺派(西本願寺)の違い

大人の事情(?)で、分かれることとなった両派。

ですが、元が同じであり、かつ思想の違いが原因ではなく、私的な理由で分かれた宗派のため、基本的には大きな違いはありません。

ただ両派とも独自のマイナールールが存在しているようです。

この辺りについて、詳しく説明しているサイトがあったので引用させてもらいます。

両派の違いは、お内仏(仏壇)の荘厳(おかざり)のしかたを見れば一目瞭然。亀の背中に乗った鶴が口にれんじく蓮軸をくわえた姿のつるかめ鶴亀しょくだい燭台(ろうそく立)があれば大谷派。これに対して本願寺派では、銅に漆塗りのせんとくせい宣徳製の燭台が用いられる。
また、焼香の回数も、大谷派では二回、本願寺派では一回と決められている。
本山の伽藍配置も、御影堂と阿弥陀堂の位置関係が逆になっている。大谷派では阿弥陀堂が左である。さらに、堂内の外側の柱が大谷派は丸、本願寺派は角、畳の敷き方も大谷派は縦、本願寺派は横になっている。
このほか、たとえば、もんしゅ門首(大谷派)ともんしゅ門主(本願寺派)、御文(大谷派)と御文章(本願寺派)----蓮如の有名な書簡-----など、呼び方が違っていたり、僧侶の衣の色が違う。『正信偈』をはじめ読誦する勤行本は同じだが、節まわしに違いがある。

引用:http://www.myoufukuji.jp/page008.html

 

以上をまとめると

  • 仏壇の中身が違う
  • 焼香・・・本願寺派1回 // 大谷派2回
  • 御影堂と阿弥陀堂の位置関係・・・本願寺派 阿弥陀堂が右 // 大谷派 阿弥陀堂が左
  • 仏教単語の言い方・・・本願寺派 門主/御文章 // 大谷派 門首/御文
  • 僧侶の衣の色が違う
  • 勤行本の読み方(節回しが違う)

などがあるようです。

 

また他にも『南無阿弥陀仏』を大谷派は『なむあみだぶつ』と読むのに対し、本願寺派は『なもあみだぶつ』と読むそうです。

 

他にも色々と細かな違いや、もしかしたら思想面でもちょっとした違いはあるかもしれませんが、上記の違い含めて、素人にはどちらかなんて分かるとは思えません(苦笑)

 

あっ、でも流石に僧侶の衣の色は分かりますね♪

・・・と思って調べてみましたが、たしかに違うようですが僧侶の階級によっても違ったりもするので、やはり素人には衣の色を見ても、本願寺派か大谷派の見分けはつきませんね(苦笑)

 

ご参考にどうぞ(あまりに種類が多くて目がチカチカしてきますが・・・)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1116446881

 

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まとめ

浄土真宗の本願寺派と大谷派は、元は同じ宗派ですが親子喧嘩・兄弟喧嘩の末、『政治利用のために分派させられた』宗派です。

現代の日本では『政教分離の原則』から、宗教を政治的に利用することはありませんが、かつての日本では、浄土真宗のように宗教が政治的に利用されてきました。

例えば平安時代に伝わった真言宗や天台宗なんかも、それまで力をつけていた南都六宗の力を弱める目的で、幕府がテコ入れした政府の差し金的な仏教です。

 

人の信仰心を上手く利用すると、色々と政府も国民をコントロールができますからね。

そう考えると、創価学会が立ち上げた公明党が力をつけてくると、今後の日本も色々とヤバ・・・

おっと、こんな時間に誰か来たようだ・・・(笑)

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