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浄土真宗の東と西の見分け方とは|宗派が分派した理由

浄土真宗 宗派 違い

京都で有名なお寺である西本願寺と東本願寺。

2つのお寺は、もともと本願寺という1つの寺院でした。

浄土真宗の寺院で西本願寺が浄土真宗本願寺派、東本願寺が真宗大谷派の本山です。

どこが違うのか、なぜ東西に分かれているのか。

西本願寺と東本願寺の違いと分裂した理由を解説します。

 

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西本願寺(本願寺派)と東本願寺(大谷派)の違い

西本願寺と東本願寺の主な違いは次の通りです。

違い比較

  1. 仏壇の中身
  2. 焼香の回数
  3. 御影堂と阿弥陀堂の位置関係
  4. 仏教単語の言い方
  5. 南無阿弥陀仏の読み方

比較ポイントをまとめました。

西本願寺(本願寺派) 東本願寺(大谷派)
仏壇の中身 鶴亀燭台 銅に漆塗り宣徳製の燭台
焼香の回数 2回 1回
阿弥陀堂の位置関係 阿弥陀堂が右 阿弥陀堂が左
仏教単語の言い方 門主/御文章 門首/御文
南無阿弥陀仏の読み方 なむあみだぶつ なもあみだぶつ

他にも僧侶の衣の色や勤行本の節回しなど細かい違いがあります。

しかし、元が同じ宗派のため基本的には大きな違いはありません。

なぜ本願寺が東と西に分かれたのでしょうか。

詳しく見ていきましょう。

 

浄土真宗の宗派:真宗十宗派

まず浄土真宗の宗派について説明します。

多くの宗派がある浄土真宗。

1923年に各宗派の連携を目的にした真宗教団連合が結成されました。

この加盟宗派は10宗派で、真宗十宗派と呼ばれています。

真宗十宗派

  • 浄土真宗本願寺派
  • 真宗大谷派
  • 真宗高田派
  • 真宗佛光寺派
  • 真宗興正派
  • 真宗木辺派
  • 真宗出雲路派
  • 真宗誠照寺派
  • 真宗三門徒派
  • 真宗山元派

この中で、浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の総本山が本願寺です。

本願寺派と大谷派の総本山

現在、本願寺派の総本山は本願寺であり、大谷派の総本山は東本願寺です。

1987年まで、両方とも本願寺が正式名称でした。

そのため、両者の区別をするために、「西本願寺」、「東本願寺」という通称で呼ばれています。

本願寺の歴史

本願寺は、浄土真宗の宗祖である親鸞(しんらん)の墓所であった大谷廟堂(おおたにびょうどう)が寺格化したものです。

この本願寺はさまざまな理由により、これまでに何度も移転しています。

移転する度に親鸞の御真影(ごしんえい)も移設しています。

この御真影とは親鸞の座像で表面には親鸞の遺灰を混ぜた漆が塗布されているため、骨肉の御真影とも呼ばれています。

1591年に今の場所に移設されました。

本願寺が2つに分かれるのは、それからさらに10年程後のことです。

 

浄土真宗の歴史

今ではよく知られた宗派の1つである浄土真宗ですが、開宗当初から一気に広まった訳ではありません。

浄土真宗が全国に広く布教したのは、蓮如(れんにょ)の功績と考えられています。

蓮如は親鸞の教えをわかりやすい言葉でまとめた御文(おふみ)を作成し、庶民への布教を行いました。

理解しやすい教えは庶民にも受け入れられ易く、急速に信者を増やしていくこととなりました。

 

広まった浄土真宗は一向宗(いっこうしゅう)と呼ばれるようになりました。

急速に増えた一向宗の信者は全国各地で団結し、蓮如のことなど御構い無しに、大名などの施政者に反乱を起こすようになります。

これが一向一揆(いっこういっき)と呼ばれる反乱です。

多くの大名が一向宗の勢いを恐れ、宗教の信仰や布教を禁止する禁教令を出しました。

 

しかし、その後も一向宗の勢いは止まらなかったため、大名が日蓮宗と結託し、京都山科にあった本願寺を焼き討ちにするという事件もありました。

山科で焼き討ちにあった本願寺はその後、大阪に移され石山本願寺(現在の大阪城の場所)となったのです。

 

このように当時の浄土真宗(一向宗)は、諸大名も恐れる程に強大な力を有していました。

当時の権力者にとっても、一向宗が味方につけば心強い一方で、敵に回ると厄介な相手だったのです。

勢いがあった一向宗ですが、織田信長には歯が立ちませんでした

信長は各地の一向宗を根絶やしにして回り、石山本願寺以外の一向宗は、大半は全滅状態となってしまったのです。

石山本願寺で一向宗は必死の防戦を続けていましたが、天皇が仲介に入ることで織田信長と和解することとなります。

この時、石山本願寺を明け渡すことで、信長と一向宗の戦いは終わりを迎えました。

その後、豊臣秀吉から土地を与えられて、今の場所に本願寺が再興されたというわけです。

 

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東西分裂の経緯

東西分裂のきっかけは、石山本願寺の和解でした。

当時の門主の顕如(けんにょ)は信長との和解後、自身の長男である教如(きょうにょ)に後処理を託して先に石山本願寺を離れました。

※以下、西を黄色、東を赤色で表現。

 

しかし教如は一部の仲間と結託して、そのまま石山を占拠し続けることを選んだのです。

顕如は誓約違反を咎(とが)められ、占拠を続けた教如たちも結局、石山本願寺を明け渡して去ることになります。

教如たちが去ったあと本願寺は火事に遭い跡形も無くなってしまいますが、教如達の仕業ではないかとの噂が残っています。

 

京都の本願寺に移った後も顕如側教如側の間には亀裂が入ってしまいました。

その後、門主である顕如が死去後にいったんは教如が新門主になります。

しかし顕如の妻(教如の母)の進言により教如は隠居させられ、教如の弟の准如(じゅんにょ)が新門主になりました。

 

こうなると面白くないのが、教如達です。

教如達は、大阪にある大谷本願寺を本拠地として、京都の本願寺とは別行動を取り始めます。

この辺りで明確に、本願寺派と大谷派の分派が起こるのです。

 

その後、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。

この戦いで本願寺派は西軍について戦っていたため、関ヶ原合戦後、「門主の准如を降ろして、教如を新門主にしよう」という意見が幕府内で出ました。

 

しかし、当時の将軍である徳川家康は考えました。

「浄土真宗は、このまま力をつけ過ぎても後々厄介になる。兄弟喧嘩の最中だから、それを利用して浄土真宗を分裂させよう。」と。

浄土真宗の力を削ぐ目的で、徳川家康は、不満がたまっていた教如に本願寺のすぐ東の土地を与え、東本願寺を別に建てさせました。

こうしてこれより本願寺は2つに分かれて、西本願寺(本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)になったのです。

 

まとめると、本願寺派と大谷派に分裂した経緯は、親子喧嘩と兄弟喧嘩で宗派に亀裂が入り、それを徳川家康が利用したためです。

意外にも子供っぽいことが原因で分裂しています。

振り回される信者はたまりませんね。

 

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まとめ

西本願寺(本願寺派)と東本願寺(大谷派)は、もともと同じ宗派のため大きく違いはありません。

そして、親子喧嘩・兄弟喧嘩の末、政治利用のために分派させられた宗派でもあります。

 

現代の日本では政教分離の原則から、宗教を政治的に利用することはありません。

しかし、かつての日本では、浄土真宗のように宗教が政治的に利用されてきました。

例えば平安時代に伝わった真言宗や天台宗も、それまで力をつけていた南都六宗の力を弱める目的で、幕府がテコ入れした政府の差し金的な仏教です。

人の信仰心を上手く利用すると、色々と政府も国民をコントロールができますからね。

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