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浄土真宗の東と西の違いと見分け方とは|宗派が分派した理由

浄土真宗 宗派 違い

京都で有名なお寺である西本願寺と東本願寺。

2つのお寺は、もともと本願寺という1つの寺院でした。

浄土真宗の寺院で西本願寺が浄土真宗本願寺派、東本願寺が真宗大谷派の本山です。

どこが違うのか、なぜ東西に分かれているのか。

西本願寺と東本願寺の違いと分裂した理由を解説します。

また、それぞれの寺院の特徴や、仏壇・仏具の違いについても触れてまいります。

 

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浄土真宗の東と西の見分け方とは|宗派が分派した理由

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浄土真宗は、日本における仏教の宗派のひとつで、親鸞聖人の教えに基づいています。浄土真宗は、主に本願寺派(西本願寺)と大谷派(東本願寺)に分かれており、その理由は、歴史的な経緯や教えの微妙な違いによるものです。分派の主な理由は、石山本願寺時代の顕如上人と蓮如上人の対立が原点となり、その後の徳川時代における政治的な背景などが絡んでいます。それでは、具体的に東と西の浄土真宗の見分け方について説明します。

浄土真宗の基本と歴史

浄土真宗は、親鸞聖人が鎌倉時代に創始した仏教の宗派です。親鸞聖人は、念仏によって阿弥陀如来の本願に帰依することで、すべての人々が浄土に往生できるという教えを説きました。その教えは多くの人々に支持され、全国に広まっていきました。それから、親鸞の弟子たちはそれぞれの地域で布教活動を行い、浄土真宗は次第に発展していったのです。

浄土真宗は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて大いに栄え、室町時代には本願寺が大きな寺院として発展しました。しかし、織田信長との対立や豊臣秀吉の天下統一による政治的な圧力を受け、本願寺は東西に分裂しました。その後、江戸時代に入り、徳川家康の政策によって、東西の寺院がさらに固定化されていくこととなり、現在に至ります。

本願寺派と大谷派の違いを知る

本願寺派(西本願寺)と大谷派(東本願寺)の違いを理解するためには、以下の点に注意するとよいでしょう。

- 教えや教義の違い: 両派とも親鸞聖人の教えに基づいていますが、微妙な教義の違いがあります。大谷派では、念仏の仕方や教義の解釈が若干異なることがあります。

- 本山の違い: 本願寺派の本山は京都の西本願寺で、大谷派の本山は大阪の東本願寺です。

- 仏壇や仏具の違い: 本願寺派では、仏壇の中央に阿弥陀如来を安置し、右に親鸞聖人、左に蓮如上人の像を配します。一方、大谷派では、阿弥陀如来の右に親鸞聖人、左に顕如上人の像を配することが一般的です。

- 寺院の数や信者数の違い: 本願寺派は全国に約1万2千ヶ寺、大谷派は約8千ヶ寺があり、信者数も本願寺派の方が多いとされています。

以上の違いを踏まえて、浄土真宗の東と西の見分け方を理解し、その歴史的背景や教えの違いを深く知ることができるでしょう。

西本願寺(本願寺派)と東本願寺(大谷派)の特徴と違い

浄土真宗は、親鸞聖人の教えに基づく仏教の宗派であり、日本において非常に多くの信者を持つ宗派です。浄土真宗は、主に西本願寺(本願寺派)と東本願寺(大谷派)に分かれています。それぞれの特徴について解説します。

西本願寺は、浄土真宗本願寺派の総本山であり、京都市に位置しています。西本願寺は、親鸞聖人の子孫である蓮如上人が開かれたお寺であり、その教えは親鸞聖人のものを引き継いでいます。また、西本願寺は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった武将たちとの関係が深く、特に織田信長との繋がりが強かったとされています。

一方、東本願寺は、浄土真宗大谷派の総本山であり、こちらも京都市に位置しています。東本願寺は、親鸞聖人の教えから派生したもので、顕如上人によって開かれました。東本願寺は、石山本願寺時代から徳川家康との繋がりがあり、特に家康との関係が密接だったと言われています。

このように、西本願寺と東本願寺は、それぞれ異なる歴史と特徴を持っていますが、どちらも親鸞聖人の教えを引き継いだ浄土真宗の一派であることに変わりはありません。

教えと信仰の違い

西本願寺と東本願寺の教えと信仰には、それぞれに独自の特徴があります。

まず、西本願寺の教えは、親鸞聖人の教えを受け継ぎ、阿弥陀如来への信仰を中心に据えています。そして、阿弥陀如来による救済を信じることによって、極楽浄土に往生することができるとされています。また、念仏を唱えることで、自分自身だけでなく、他者の救済にも繋がるという考えがあります。

一方、東本願寺の教えは、親鸞聖人の教えに基づきつつも、顕如上人の影響が色濃く残っています。こちらも阿弥陀如来への信仰が中心ですが、顕如上人によって浄土宗との差別化を図るため、南無阿弥陀仏を唱えることが重要視されています。このため、東本願寺では南無阿弥陀仏の唱え方に特徴があると言われています。

信仰面では、両派ともに親鸞聖人の教えを礎としていますが、それぞれの教え方や取り組み方に違いがありますことが理解できます。

仏壇と仏具の違い

西本願寺と東本願寺の仏壇や仏具にも違いが見られます。

西本願寺の仏壇は、通常、本尊である阿弥陀如来像を中心に、脇侍として親鸞聖人や蓮如上人の像を祀ります。また、仏具には、経典や位牌、供養のための花やお線香などが用いられています。

対して、東本願寺の仏壇では、本尊に阿弥陀如来像を置くことは同じですが、脇侍として親鸞聖人や顕如上人の像を祀ります。さらに、仏具に関しても違いがあり、経典や位牌、供養のための花やお線香などが同様に使われますが、南無阿弥陀仏を唱える際に使う念仏数珠などが特徴的です。

このように、西本願寺派と東本願寺派の信者が用いる仏壇や仏具にも、それぞれ独自の特徴が見られます。

西本願寺と東本願寺の主な違いは次の通りです。

違い比較

  1. 仏壇の中身
  2. 焼香の回数
  3. 御影堂と阿弥陀堂の位置関係
  4. 仏教単語の言い方
  5. 南無阿弥陀仏の読み方

両者の違い一覧まとめ

比較ポイントをまとめました。

西本願寺(本願寺派) 東本願寺(大谷派)
仏壇の中身 鶴亀燭台 銅に漆塗り宣徳製の燭台
焼香の回数 2回 1回
阿弥陀堂の位置関係 阿弥陀堂が右 阿弥陀堂が左
仏教単語の言い方 門主/御文章 門首/御文
南無阿弥陀仏の読み方 なむあみだぶつ なもあみだぶつ

他にも僧侶の衣の色や勤行本の節回しなど細かい違いがあります。

しかし、元が同じ宗派のため基本的には大きな違いはありません。

なぜ本願寺が東と西に分かれたのでしょうか。

詳しく見ていきましょう。

東西分裂の経緯|信長と徳川時代の影響

浄土真宗の東西分裂は、織田信長と徳川時代における政治的な影響が大きな要因となりました。

分裂の背景には、本願寺の寺院勢力の拡大と権力闘争があります。

今回は、信長新長と徳川家康がこの東西分裂にどのような影響を与えたのか、歴史的背景を踏まえて解説していきます。

浄土真宗の歴史

今ではよく知られた宗派の1つである浄土真宗ですが、開宗当初から一気に広まった訳ではありません。

浄土真宗が全国に広く布教したのは、蓮如(れんにょ)の功績と考えられています。

蓮如は親鸞の教えをわかりやすい言葉でまとめた御文(おふみ)を作成し、庶民への布教を行いました。

理解しやすい教えは庶民にも受け入れられ易く、急速に信者を増やしていくこととなりました。

 

広まった浄土真宗は一向宗(いっこうしゅう)と呼ばれるようになりました。

急速に増えた一向宗の信者は全国各地で団結し、蓮如のことなど御構い無しに、大名などの施政者に反乱を起こすようになります。

これが一向一揆(いっこういっき)と呼ばれる反乱です。

多くの大名が一向宗の勢いを恐れ、宗教の信仰や布教を禁止する禁教令を出しました。

 

しかし、その後も一向宗の勢いは止まらなかったため、大名が日蓮宗と結託し、京都山科にあった本願寺を焼き討ちにするという事件もありました。

山科で焼き討ちにあった本願寺はその後、大阪に移され石山本願寺(現在の大阪城の場所)となったのです。

 

このように当時の浄土真宗(一向宗)は、諸大名も恐れる程に強大な力を有していました。

当時の権力者にとっても、一向宗が味方につけば心強い一方で、敵に回ると厄介な相手だったのです。

勢いがあった一向宗ですが、織田信長には歯が立ちませんでした

信長は各地の一向宗を根絶やしにして回り、石山本願寺以外の一向宗は、大半は全滅状態となってしまったのです。

石山本願寺で一向宗は必死の防戦を続けていましたが、天皇が仲介に入ることで織田信長と和解することとなります。

この時、石山本願寺を明け渡すことで、信長と一向宗の戦いは終わりを迎えました。

その後、豊臣秀吉から土地を与えられて、今の場所に本願寺が再興されたというわけです。

織田信長と浄土真宗の関係

織田信長は、浄土真宗の教義に共感し、石山本願寺と手を組んでいました。

しかし、石山本願寺の勢力が拡大し、信長の支配に対抗する勢力が生まれることになります。

信長はこれに対処するため、石山本願寺を包囲し、最終的に降伏させることになります。

これが分裂の背景にある出来事の一つとされています。

徳川家康と浄土真宗の関係

徳川家康は、織田信長の後を継いで全国統一を目指し、浄土真宗の勢力も支配下におきました。

家康は、浄土真宗の本願寺を一宗として扱い、それぞれの寺院に対し自らの権威を認めさせることで、浄土真宗寺院の組織と権限を整えることに成功します。

この過程で、東本願寺と西本願寺という二つの本山が成立し、今日の東西本願寺の分裂を決定的にしました。

東西分裂の経緯をより詳しく

東西分裂のきっかけは、石山本願寺の和解でした。

当時の門主の顕如(けんにょ)は信長との和解後、自身の長男である教如(きょうにょ)に後処理を託して先に石山本願寺を離れました。

※以下、西を黄色、東を赤色で表現。

 

しかし教如は一部の仲間と結託して、そのまま石山を占拠し続けることを選んだのです。

顕如は誓約違反を咎(とが)められ、占拠を続けた教如たちも結局、石山本願寺を明け渡して去ることになります。

教如たちが去ったあと本願寺は火事に遭い跡形も無くなってしまいますが、教如達の仕業ではないかとの噂が残っています。

 

京都の本願寺に移った後も顕如側教如側の間には亀裂が入ってしまいました。

その後、門主である顕如が死去後にいったんは教如が新門主になります。

しかし顕如の妻(教如の母)の進言により教如は隠居させられ、教如の弟の准如(じゅんにょ)が新門主になりました。

 

こうなると面白くないのが、教如達です。

教如達は、大阪にある大谷本願寺を本拠地として、京都の本願寺とは別行動を取り始めます。

この辺りで明確に、本願寺派と大谷派の分派が起こるのです。

 

その後、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。

この戦いで本願寺派は西軍について戦っていたため、関ヶ原合戦後、「門主の准如を降ろして、教如を新門主にしよう」という意見が幕府内で出ました。

 

しかし、当時の将軍である徳川家康は考えました。

「浄土真宗は、このまま力をつけ過ぎても後々厄介になる。兄弟喧嘩の最中だから、それを利用して浄土真宗を分裂させよう。」と。

浄土真宗の力を削ぐ目的で、徳川家康は、不満がたまっていた教如に本願寺のすぐ東の土地を与え、東本願寺を別に建てさせました。

こうしてこれより本願寺は2つに分かれて、西本願寺(本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)になったのです。

 

まとめると、本願寺派と大谷派に分裂した経緯は、親子喧嘩と兄弟喧嘩で宗派に亀裂が入り、それを徳川家康が利用したためです。

意外にも子供っぽいことが原因で分裂しています。

振り回される信者はたまりませんね。

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浄土真宗の宗派:真宗十宗派一覧|それぞれの宗派の特徴や教え

浄土真宗の宗派について説明します。

多くの宗派がある浄土真宗。

1923年に各宗派の連携を目的にした真宗教団連合が結成されました。

この加盟宗派は10宗派で、真宗十宗派と呼ばれています。

真宗十宗派

  • 浄土真宗本願寺派
  • 真宗大谷派
  • 真宗高田派
  • 真宗佛光寺派
  • 真宗興正派
  • 真宗木辺派
  • 真宗出雲路派
  • 真宗誠照寺派
  • 真宗三門徒派
  • 真宗山元派

この中で、浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の総本山が本願寺です。

本願寺派と大谷派の総本山

現在、本願寺派の総本山は本願寺であり、大谷派の総本山は東本願寺です。

1987年まで、両方とも本願寺が正式名称でした。

そのため、両者の区別をするために、「西本願寺」、「東本願寺」という通称で呼ばれています。

本願寺の歴史

本願寺は、浄土真宗の宗祖である親鸞(しんらん)の墓所であった大谷廟堂(おおたにびょうどう)が寺格化したものです。

この本願寺はさまざまな理由により、これまでに何度も移転しています。

移転する度に親鸞の御真影(ごしんえい)も移設しています。

この御真影とは親鸞の座像で表面には親鸞の遺灰を混ぜた漆が塗布されているため、骨肉の御真影とも呼ばれています。

1591年に今の場所に移設されました。

本願寺が2つに分かれるのは、それからさらに10年程後のことです。

真宗には十宗派があり、それぞれに特徴や教えが異なります。それらの宗派は以下の通りです。

- 真宗大谷派

- 真宗本願寺派

- 真宗高田派

- その他の宗派

ここでは、それぞれの宗派の特徴や教えについて解説いたします。また、真宗の歴史や分裂の背景についても触れていきます。それぞれの宗派は、親鸞の教えを受け継ぎながら、時代や地域の変化に適応して発展してきました。現在、日本全国には多くの真宗寺院があり、多くの人々に親鸞の教えが伝わっています。今回は、真宗十宗派のそれぞれの特徴や教えを知ることで、真宗をより深く理解する手助けとなることを目指しています。

真宗大谷派と真宗本願寺派

真宗大谷派と真宗本願寺派は、真宗の代表的な二つの宗派であり、それぞれ東本願寺と西本願寺を本山としています。両派の分裂は、15世紀に親鸞の直系の子孫である蓮如が石山本願寺を開いたことがきっかけとなりました。

真宗大谷派は、東本願寺を総本山とする宗派で、現在の京都市にある東本願寺を中心に全国各地に寺院があります。真宗大谷派の教えは、親鸞によって唱えられた南無阿弥陀仏(念仏)の教えを基本とし、人々に平和で救済されることを願っています。

一方、真宗本願寺派は、西本願寺を総本山とする宗派で、現在の京都市にある西本願寺を中心に全国各地に寺院があります。真宗本願寺派の教えも、真宗大谷派と同様に親鸞によって唱えられた南無阿弥陀仏(念仏)の教えを基本とし、人々に平和で救済されることを願っています。

真宗高田派とその他の宗派

真宗高田派は、真宗の中でも比較的新しい宗派で、江戸時代に真宗本願寺派から分かれたものです。真宗高田派の総本山は、大阪市にある金色院で、現在も全国各地に寺院があります。真宗高田派の教えは、親鸞によって唱えられた南無阿弥陀仏(念仏)の教えを基本とし、人々に平和で救済されることを願っています。

その他の宗派には、真宗准如教団、真宗大谷派四条派、真宗興正派などがあります。それぞれに独自の教えや特徴がありますが、根底には親鸞によって唱えられた南無阿弥陀仏(念仏)の教えが共通しています。これらの宗派も、真宗の大きな流れの中で、人々に平和で救済されることを願って教えを広めています。

 

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現代の東本願寺派と西本願寺派|経営・運営の違い・関係

東本願寺派と西本願寺派は、浄土真宗の二つの大きな宗派であり、それぞれ独自の経営・運営が行われています。東本願寺派は、親鸞聖人の教えを継承し、現在も京都にある東本願寺を本山として全国に寺院を持ち、多くの信者を抱える宗派です。一方、西本願寺派は、同じく親鸞聖人の教えに基づくものの、蓮如上人が開かれた西本願寺を本山とし、やはり全国に寺院と信者が存在します。

両者の違いについては、組織体系や経営方針などが異なります。東本願寺派では、各地の寺院が独立して運営されることが一般的で、それぞれの寺院が独自の取り組みを行っています。一方、西本願寺派では、本山が各寺院の運営を統括することが多く、一定の統制が取られていると言われています。

また、両者は歴史的背景や指導者の影響によって、教義や信仰方法にも微妙な違いがあることが指摘されています。それでも、双方ともに浄土真宗の基本的な教えである「南無阿弥陀仏」という信仰の根幹は同じであるため、互いに尊敬し合っているとされています。

東西本願寺の寺院運営の違い

東西本願寺の寺院運営の違いは、主に組織体制や資金の調達方法、法事の進行などに表れています。東本願寺派では、各寺院が自治的な運営を行っており、本山との連携は比較的緩やかです。そのため、地域に密着した活動や信者との交流が活発であることが多いです。

一方、西本願寺派では、本山が各寺院の運営をより強く統括しており、一定の基準や方針に沿った運営が求められています。これにより、組織的な取り組みや法要の進行が統一されることが多く、全国の寺院で似たような儀式が行われることが一般的です。

東西本願寺の全国寺院と信者数

東西本願寺の全国寺院と信者数については、東本願寺派と西本願寺派でそれぞれ異なります。東本願寺派は、全国に約1万2千の寺院があり、信者数は約600万人とされています。一方、西本願寺派は、全国に約1万の寺院が存在し、信者数は約800万人といわれています。

このように、東西本願寺にはそれぞれ独自の信者数と寺院数がありますが、いずれも日本の仏教界を代表する大きな宗派であり、多くの人々に信仰されています。

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まとめ|東西本願寺派の違いを理解し、信仰の理解を深める

西本願寺(本願寺派)と東本願寺(大谷派)は、もともと同じ宗派のため大きく違いはありません。

そして、親子喧嘩・兄弟喧嘩の末、政治利用のために分派させられた宗派でもあります。

 

現代の日本では政教分離の原則から、宗教を政治的に利用することはありません。

しかし、かつての日本では、浄土真宗のように宗教が政治的に利用されてきました。

例えば平安時代に伝わった真言宗や天台宗も、それまで力をつけていた南都六宗の力を弱める目的で、幕府がテコ入れした政府の差し金的な仏教です。

人の信仰心を上手く利用すると、色々と政府も国民をコントロールができますからね。

 

東西本願寺派は、歴史的背景や組織体制、運営方法などに違いがあるものの、どちらも親鸞聖人の教えを基にした浄土真宗の宗派です。それぞれの違いを理解し、信仰の理解を深めることで、より自分自身の信仰に対する視野が広がるでしょう。

さらに理解を深めたい方は、実際に東西本願寺の寺院を訪れて、その歴史や文化を肌で感じることがおすすめです。次の機会に是非、東西本願寺を訪れてみてください。

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